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2015-06-20(Sat)

1週間前、妹には 家族ができたと云う(小鳥)


 まだ、枝豆より小さい (根が切れてた 実生リンゴ)


 根が折れ曲がっていた 実生リンゴ


植物にも、魂(の ようなもの)が、宿っているに違いない
それが、抜けてしまったら、
成長も 呼吸も しなくなって、土にかえるのよね。

余裕がなくて、短時間しか、直射日光を当ててやれない
雨水で洗ってやれたのも、まだ2回だけ
なのに、なんて美しいのだろう。

PHSのカメラでは、とらえられなかったけど、
新芽は 水分が多いからか、光って見えるし…
本葉の下に生えてる、産毛みたいな、
小さな 黄緑色のツノ(?)が、可愛い。




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2015-06-04(Thu)

種は残してやるほどに



林檎を買ってきても、包丁を持つ気力がなくて、
5日くらい手をつけなかった 1個108円の ふじ林檎。

自然農法の福岡正信さんの ひそみに ならい、
果実や野菜を扱ったときに出る種は、捨てられぬ私。

(この林檎にも 種があったら、果肉をはがして 保存せねば)
…面倒だ。
そんなことさえ 面倒に思うほど、私はくたびれていた。

先週末に やっと食べたら、
スカスカになりかけ。

食べ時を逃したのだ、ああ 残念
もったいないことをした。

種も無いようだ。
念のため、芯を割ってみよう……

「わああ!」

割れた。豆が!
根を出し、赤茶色の種皮から抜け出た、双葉になる直前の
大豆のような種子が、真ん中から裂けてしまった。

「あいたたたたた」

種を6個発見し、内5個が発芽していた。
裂いてしまったのは 仕方ないが、
残りの 4個は、土に返してやろうと思い
(自分が)食い詰めてるというのに、土を買いに行った。

翌日には 半分になった(2個は死んだらしく、白カビに覆われていた)。
残り2個のうち、1個は、根が千切れてる。
ほとんど、頭だけになった 豆モヤシみたいに、白っぽかった。

でも、奴は頑張って生きて、緑色になった。
無傷だった1本が、
立ち上がり、双葉を開き、本葉を出し始めた その隣で、
横になったまま、半分だけ種皮から出て、
儚くも 美しく、緑に息づいている

おそれいりました。


2013-05-30(Thu)

ドクダミと蚊

昨年の8月下旬に、20度の焼酎に漬け込んで、寝かせておいたドクダミの壜詰め。
赤みがかってきて、もう 生ぐさいニオイもない。
化粧水用のケースに入れて、使ってみた。
悪くない。

蚊に刺されたところにも、塗ってみた。
痒みには、効かないみたい? だったけど、ぶりかえしがない。
その場では効いてないようでいて、実は効いていたのかも。
(蚊に刺されると、数日間、痒みが ぶり返すのが、恒例だったのに)

2012-09-14(Fri)

まだ見ぬ(暴力や断罪の苦しみのない)故郷の面影を たずねて

5時20分になった 閉門時刻ギリギリ(1分前)に、
鳥居の前に たどりついた。
先週の 土曜日のことだ。

特急に乗って 行った。
いつもの 倍以上の運賃がかかったが、
門前払いを喰らわずに済み、さいわいだった。

土佐の山に生えていたのと 同じ草が、
(笹の葉を 太らせて、丈を短くして、
軽く ウエーブを かけたような、
かすかに、波をうったような形の 草の葉が)
夕日を浴びて、光っていた。
ひと群れのコケも、光っていた。

半月ほど前、体調を崩した。
鍼治療師も 匙を投げた、そんな自分。

(もう 森から帰りたくない)とか、
(寂しく、ひもじく、自分を笑うことが精一杯の 人の世には、戻りたくない)とか、

(森の露に なりたい)とか、
(土に帰したい)などと思っても、
死ぬことは 叶わない。

足を棒にして、
木と草の群落(森)に 押し出されるように、
人の群れに 戻される。

愛しあった人間同士が、
物理的(身体的)に接触しなくても、
お互いの魂の一部分を、譲り渡してしまうことが あるように、

人と自然(森)も、
生命が混ざりあう(?)ことが、あるのだろうか。

(何故 行きてる?)
(私の場合は、多分、森が あるから)

2012-05-22(Tue)

ヤモリに見下ろされて しばし安らぐ

約3ヵ月ぶりに、バッチ・フラワー・レメディ(イギリスのハーブと水)を 飲んでいる。

山林檎、柳、柊(ひいらぎ)、ラーチ(落葉松)、オリーブ、レスキュー( スター・オブ・ベツレヘム(大甘菜) + ロック・ローズ(半日花) + インパーチェンス(鳳仙花) + チェリープラム(紅葉李) + クレマチス(仙人草) )、岩清水

専門家に手伝ってもらって 選んだのに、飲むまで1週間かかった。
原液(数滴)に、ブランデー(酸化防止用)と 天然水を加え、
(量を増やして)半月分の分量にするのに 手間どったのと、
「自分は、こんなに たくさんの 草花の生命(波動とか云う、精魂と云うか、子守唄と云うか…)を受け取るに あたいする人間か?」
と 自分に問えば、そうは 思えなかったから(躊躇したから)だ。

「分析なさるのは けっこうですが、100%正解とは 限らない その分析結果(判断)を、クライアントの心より 大事にして…」
「一切の例外を認めず、押しつけて、クライアントの気力を 喪失させる」
「そんなセッションになっては、意味ないですよね」
などと、カウンセラーに釘を刺す クライアントは、不遜かもしれないが、
クライアントは 疲れ果てているのだ。

精神安定剤代わり(過去と現在の ギャップを埋めるため、かつ、怒りを他者に向けないため)の自傷行為と罪悪感で、心身ともに疲弊している。
いつになったら 不安なく休めるのか、見当もつかない。
(こっちは必死だ)

カウンセラー側は、
『クライアント=困っている輩=
本人の責任=
当人の 考え方や 習慣を、世の中の 主流に合わせることが使命』
…のように 思っているかもしれないが。
「ちょっと待たれよ」

家庭的、頭脳的、身体的、経済的に恵まれながら、
暴力で 問題を片づけようとしたり、
弱い者に 面倒事を押しつけたり、
脳の働きが 時々遅くなる人間(私)の愚かさを、悪と見なして 断罪する(憎み 責める)ような人が、少なくなかった。
(私の 過去に於いては)

そう云う人たちこそ、より深く病んでないか?
そう云うリーダーが 統率する生物集団は、地球から愛されるのか?
(嫌われるのじゃない?)

人が 自然界に見捨てられないための ブレーキ(安全装置)となるように、
(私のような)歩みののろい者が、産み出されるのでは なかろうか?

それを、狂っている 世の中に『合わせようとする』ような指導(治療)は、
決して 実を結ばないと思う。