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2015-04-04(Sat)

いけにえに サヨナラ

先月までの職場は、耐震性の強い施設だった。
関東大震災の時、首都(東京)を襲ったくらいの揺れには耐えられると聞いた。
勤務中に地震が起きても、施設内では 全然 気づかなかった。

巨大なクッションが、地震の揺れを吸収してくれて、
建物と、財産と、働いている人間を、守るしくみ。
けっこうなことだ。

自宅アパートは、4年前の震災のとき、ひどく揺れた。
(これで、私も、この世とお別れか)と、思ったくらい。

アパートは 幸いにも 潰れなかったけど、
私の精神は、潰れたまま、…
むしろ 傷みが 酷くなった?

なんで、遺書に解説しなきゃいけなかったんだ?
先日のことだ。

自殺を目論んでいた訳じゃないぞ。
もう疲れてて、明日は来ないかもと思った日、
「あなたを信じてました」と、メールの返信に書いて送ったら、

『もう信じていないのは、期待があったからでしょう』という返事がきてしまった。
『私が一所懸命で気負いすぎたのが、まずかったのでしょう』とも。

カーッ!!
期待なんかしてねえつーの!
憧れていただけ。

過去形で書いた=今はもう信じてない?
そんな方程式は無いよ。

お互いに、疲れていることは、分かってる。
どちらかと云えば、こっちの方が傷みが酷いと思うのだが?
遺書の解説のようなメールを、私は一所懸命にPHSから送った。

憧れの君よ、感謝しているよ。
私に力を貸してくれようとした君に、甘えてみたかったなあ。
でも、私があなたに送った最後のメールは、遺書の解説。

なんでですかね?
私が傲慢だからみたいで、
かなしいです。

思えば私は、耐震装置だったよう。
家族のサンドバック、夫婦間の緩衝材、親戚中の笑い者。…

望んでそうなった訳じゃないが、
そういう立場で生き延びた。

そんな在り方は、半分 死んでるようなものだけど、
殴られること、激しく揺さぶられることが、当たり前になっていると、
麻痺してしまうのだ。
(脳のどこかが?)

穏やかな日常に憧れているのに、
穏やかさがうれしいのに、
それが、暴力の嵐の前兆みたいに思えて、
怯えたりして、
自分で自分を殴るみたいなことをしてしまう。
(それが自傷行為のような気がする)

笑った親戚、見て見ぬふりの隣人。
それは、ほんとうに、ひとごとだったのかしらね?

自分たちの憂さ晴らしに、
暴力の生贄に、
あいつなら 遠慮はいらないと、
そんなふうに、
本当に、
一瞬たりとも、思わなかったですか?
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