> 2011-08-14 09:54:52 Weblog
>> 『墓参りって何のためにするの?』ネット住民が激論
>> 『お盆のお墓参り』が先祖を思う気持ちから 毎年恒例になっている人も多いだろう。
>> そんななか、先日2ちゃんねるに『墓参りって 誰が得するイベントなんだよ』というスレッドが登場
>> 『そもそも 墓参りは 何のために行うのだろうか?』について 激論を戦わせている。
>> はっきり『無駄だ』という意見も現れたが、
>> 『墓参りすると ご先祖様に 駄目人間ですみませんって反省する自分がいる』
>> 『自分が墓に入る年齢に近づかないと わからないだろうな』
>> と、墓参りという行為に 何らかの意味を見いだす人は多く、なかには
>> 『墓参り自体が目的なんじゃない。往復の道中で、普段会話がない家族や 親戚と話をするのが大事』
>> という イベントとして重要という指摘も 登場した。
>> ちなみに、墓参りの意味について、ホームページなどで語っている その道のプロは、
>> 『一般的な回答としては、ご先祖様に 結婚や出産などの 家族の出来事を報告するためとか、亡くなった方の ご冥福を祈るためであるとか 言われています。
>> (中略)それ以上に 大切なことがあると考えています。
>> それは、お墓参りをすることによって、冷静に 自分自身を見つめなおすことができるということです』
>> (お墓参り代行サービス)
>> と説明しており、結局のところ どう感じるかは その人の心もち次第といったところ。
> こういう問題は いろいろ解釈出来ると思う。
> 基本的には、自分が 家庭や子供を持った時、子供たちに 自分たちのルーツが どこにあるかを伝え教え、一族の名誉に連なるものとしての 自覚をもたせる。
> そのための習俗だと思う。
> そういう自覚によってこそ 人は 良き 社会の一員ともなれる。
> そういう具合に、個人を 社会から疎外せぬように、自然に 社会の一員として 取り込んでいく 良くできた 社会統治システムの一つ なのでは あろうと思う。
> その上に、様々な 宗教的意義などが乗っかって、システムそのものを カモフラージュし、露骨に見えないようにしている。
> それは メカニズムが露骨にさらけ出されていると、人はそれを 理屈で解釈し 無意味と判断しがちだが、宗教的意味合いや 神秘でカモフラージュされていると、それに対する 理性的追求そのものが 留保されてしまうからでもある。
> そのほうが、無駄に不必要な議論を 巻き起こさないで済む、結果 人々が 自然に習俗として行うように 仕向けることができ、自動的に 人心に 落ち着きを与え、社会そのものをも 安定に導くことができる。
> まあ 根幹がしっかりあると信じられるからこそ、枝葉は 安心して 栄えられるということはあるものだ。
> あるいは 大地が不動であると信じるからこそ、そこに足をつけている自分自身 安心して暮らしていける。
> しかして 実際には もはや根幹は はるか昔に無くなってしまって 今はここにないものだし、不動だと信じる この大地は、宇宙にぽつんと浮かび 激流に流されるように 凄まじい速度で 動き続けている。
> 真実においては、私たちは 空に向かって投じられ 瞬間 宙に浮かんでこそいるが、いつ落ちるかもしれないボール、断崖絶壁の間に渡された 一本の細い綱の上を歩く 曲芸師ほども、孤独で 危うい存在だとも言える。
> そういう真実を ありのあまに見れば、多くの人は たちまち不安に苛まれ、そこから 一歩も前に進めなくなる。
> だから 仮初の方便として、自分たちを しっかり支えてくれている根幹や 不動なる大地の存在を 信じる必要がある。
> まあ、わかったような、わからないような話だが、とりあえず そんなところでは なかろうか?
> というわけで、お盆である。
> 行ける人は、できるだけ行ってあげて 花の一本、線香の一本、茶碗一杯の水なりとも供養し、行けない人は 心のなかで 誠意を込めて詫びつつ、どうか 安らかに眠りたまえと 手を合わせていれば良い。
> それだけのことで、先祖との心のつながりは 途絶えないし、自分に気持ちも 無意識なレベルで落ち着く。
> 習俗なのだから あんまりややこしく考えないでもいい。
> できること、やるべきことだけでも 誠心誠意 きちんとやっているなら、あの世の先祖も 基本 ややこしく 文句は言うまい。
> そう思う。
PR