「職業と云うものは、自分を表現するツール」で、
「心の在り方を みなさんに お伝えし、本来の あるべき姿に 立ち返って、幸せを感じて 生きていっていただきたい」思いから、今の お仕事を始められたと。
「身体が 不自由で あるが故に、
人と仲良く、助け合って 生きていくには?
社会から、仲間から、干されずに 生きていくには?」と、いつも 考えていたと。
外に 遊びに 行けない。
家の中に ずっといる以上、自分なりの 楽しみを 見出すしかないと。
毎日、病気と向き合い、死の恐怖や 苦痛と向き合い、疑問と向き合う中で、
哲学書を読んだり、自己啓発本を読んだり、音楽を作ったり、文を書いたりして、…
心を 出来る限り 前向きに、積極的にと、試行錯誤を 続ける内に、
「今の道へ、導かれたのだと思います」
「私は ちょっと その道(幸せに生きる道)に 詳しいだけの 協力者であり、被協力者です」とのこと。
実力者に 縁があろうと、どんな仲間が いようと、
「自分を救う、具体的な行動が できるのは、自分だけだよ」と、言って下さってるのだと思う。
◆ SAS総合研究所の 安部浩之先生の言葉は、
虐待され、かつ、感謝を 強要されながら 育った者の心には、しばしば にがい。
わたし と云う人間は、
人の世の 幸福に、慣れていないからか?
(不安に いたたまれないのか?)
罪悪感に とらわれているせいか?
不快なことは、嫌なのに、
幸福からも、遠ざかろう 遠ざかろうと するみたいだ。(無意識に?)
SAS総合研究所の サイトを開くことは、私にとって、
楽しみであり、大きな慰めでも あるけど、
生傷だらけの身を、海水で洗うような 痛みを伴う。
その痛みは、
ことあるごとに、自分を 裁こうとする私が、
まだ 完全には、自分を あきらめてない、「印」のような 気がする。
「理論・理屈が 人を動かすのでは ありません」
「素直・誠実・思いやり」と云った「心」こそが、人の心を 動かすと 書かれている。
その事実は、ひとさまに 見せて戴いた。
だけど 自分の心は、ヒビ割れて、カビだらけになって 死んだかのよう。
見えないし、感触さえ あやふやで、よく分からない。
疲れてることだけは 分かるけど、
何故か 自分に、休息さえも、満足に 与えられない。
『自分を 勘定に入れずに 生きることが、素晴らしい』と、言った人も いたけど、
そう云う人は、知らないのでは?
自分てものを、本当に 頭数に入れないで、長い時間、ひとりで 暮らしてたら、
心が、あらゆる闇を 引き受ける、ブラックホールみたいに なっちゃうことを。
『何でも 自分で やらなきゃ』と、ずっと 思ってたのに。
今、まともに できることと云えば?
靴を揃えること くらい?
今日は、…
職業訓練校の、金属片(天井の塗装)が 剥げ落ち 降り注ぐ 机の上に、
雑巾がわりに『使った塵紙』を、放置したまま 帰宅した。
捨てようと思いながら、椅子から立ち上がったのに、…
めまいがしてた。鞄(テキスト入り)は重く、疲れてもいたけど、…
恥ずかしいやら、情けないやら。
PHSから ブログ更新できなくなったのは、
「目玉を休めろ」と云う、天の配剤か。
(今は、借りたパソコンから 書いている。既に 2時間半が経過)
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