バスが着く頃、バス停に 迎えに来て下さると云う。
約1時間半 待ち、枯木平行きの バスに乗る。
市街地を抜けると、岩木山が見えた。
幾つかの神社や、お地蔵さんの前を 通って、嶽(だけ)温泉(岳温泉)で 下車。(1,010円)
帰りの バスの時間を 手帳に 書き終わったとき、森のイスキア と書かれた 車が 停まり、スタッフの方が、私を 見つけて下さった。
バス停と 森のイスキアまでは、徒歩20分くらい とのこと。
別荘地の道端に シスターがいて、私を見つけて お辞儀をして下さった。私も 会釈を返した。
別荘地の 1番 奥に 森のイスキアは あった。
主催者の 佐藤初女さん(88歳)は、人生相談の達人で、
(弱った者を、尋問しない、説教しない、追い詰めない、追いたてない。
美味しい御飯を 食べさせて、尋ねられれば、答えてくださる人)
全国から 呼ばれている 忙しい先生だから、
活動の拠点である 森のイスキアの 利用希望者は、半年先まで 予約がいっぱい。
1泊の予約を取るのに 半年以上 待つのだし、高徳の人に会える 貴重な機会だから、
前日に 近くの温泉宿に 泊まるなどして、早い時間に 到着する人が 多いらしかった。
(夕飯の1時間前に、やっと たどり着き、翌日の お昼御飯も 食べずに 帰らねば ならない私は、ものすごい間抜け としか 言いようがない)
スタッフ(先生の助手)さんは、5人以上はいたと思う。(平均年齢70歳以上?)
佐藤先生の 鳴らす鈴に呼ばれ、お祈りして 円卓で戴く 御飯の美味しさは、たとえようが なかった。
夕飯の後で、椅子に移動した先生を 追いかけて、
相談したり、先生の手を握ったり、先生とハグする先客を、私は ぼんやり見ていた。
(借りてきた猫になっていた)
私の他に 8人の宿泊客がいて(内2組が家族)、
熱い思いや、深い悲しみを 打ち明けて、目を赤くしたり していた。
先生の他に、もう1人、光り輝いているような 方がいた。
私を 迎えて下さった あのシスター、
カナダの修道院から 3年に1度の 休みを利用して、来ていた人だった。
(80代前半。バス停から 歩いて来たと云う。高齢者には、見えなかった。)
佐藤先生と 姉妹のように見えた。
カナダに渡って 30年以上、逆らわず(従順)、結婚せず(純潔)、清貧に生きる誓いを立てて、約50年と云う。
クリスチャン・ホームで育ったと云う、訪問者が、
『何故 迷わずにいられるの? 宗教って本当に いいものか 分からない、でも 離れられない』と 告白していた。
どんな問いにも、耳を傾ける シスター。
でも、答えるとは限らない シスター。
俗人には、修道者が、
神(広大無辺な力)の助手に思われ、
智慧と 徳を 備えた、先生(神と 人との 仲立ち)に 見えてしまう けれど、
シスターは、神を安売りする人では ないのだった。
教会関係の 施設に泊まるため、スタッフの 車に向かう シスターは、私の肩を ポンと叩き、
「さっきのこと、祈っとくわね」と 言って行かれた。
ハイチの援助に 力を注いでいる 教会の、シスターと聞いて、
ハイチの 孤児院長の嘆きを(何故 神は このような試練を)、そのまま、シスターに 投げてしまったのだ 私は。
(その試練を 与えたのは、神じゃないと思いたい と云う 願望まで添えて)
佐藤先生の隣に、私が坐れたのは、もう 先生に 休んで戴かなければ、と云う時刻に 近かった。
「貴女は 特別なことは ないのね」
『はい』
私は、目の前に居る人の 期待を、…最優先する(可能な限り 裏切らない)者です。(泪)
でも、…
何も言えない(まして 助けて欲しいなんて 今更 言えない)者の手を、先生は 握って、何か 念じて下さった ようだった。
誰かとの 会話の中で、先生が 力を込めて 語った言葉、
「必ず良くなるから、言葉で言うのでなく 見守ってあげて」
「いつも 真実に 生きて いなければね」
…言葉だけでは 意味をなさない、生活(日常)に 裏打ちされて、血が通った言葉。
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